伊達政宗の講座に行ってきたよ

久々の東京での伊達政宗関連講座が9月、淑徳大学板橋キャンパスで開催されました。

部長、もちろん行ってきましたよ!!

内容は4名の講師による計3時間半の講座。当然一人あたりの時間が足りないので、皆さん最後は駆け足になったのが惜しいですね。

 

しげ部としては、とても気になる
「戦国期の一門・家臣と領国支配」
こちらで語られた、伊達実元、成実親子の話をかいつまんで紹介します。

まず実元は領地として大森城を中心に今の福島市あたりに、その時の伊達家当主晴宗より賜るのですが、では当時、他の家臣はといえば、土地を分散して与えられていた。
分散してるがゆえ、何か有事が起きた時には兵を各地から集めるのに時間がかかる。
反乱を起こしにくいという点から見れば、実元への信頼が読み取れる。

また、大森城は伊達領の南の最前線で、重要な場所。

領地が一箇所にまとまっているから、兵を動かしやすい。

実際、八丁目城を実元が単独で落としたり、その後も畠山と独自にやり取りした経緯もあり、晴宗、次の当主輝宗とは別に動く権限があったのではと、考えられる。

輝宗はなかなかの過激派であり、その彼にものを言えるのは実元だけだったのでは。

それほどに伊達家の重鎮である、実元の嫡子が成実。

 

部長の考えだが、
彼は実元の手腕を徹底して学び、最前線での敵との交渉の仕方などを徹底して叩き込まれたのではないか、と思うのです。
10代で家督をついで、交渉力を叩き込まれて発揮する。若いのに、、、と、ついつい現代の脳みそで考えてしまいます。

 

「仙台藩家臣団の成立過程」

この講座では誰が、というよりも「家臣」そのものを大きくまとめて、岩出山所代を中心にその動きが語られました。

まず、政宗は領土を110万石程度まで増やしたが、秀吉の改易により60万石に減る。
しかし、召し抱えた家臣はそのままで、しかも新たに葛西氏、大崎氏の家臣も召し抱えたので
元の知行の三分の一まで減らされた。

岩出山時代(=秀吉支配下)で、政宗は手紙の数も激減したし、内容もコピペだったり、花押もなく黒印で、紙もよくなく、当て先も1通で複数あり回覧板のようであった。
それまでは直筆で細かな伝令を数多く送っていた政宗であり、家臣も殿から直々に気にかけてもらったという距離感の近さが、伊達家をまとめる大きな要因であったものが崩れた。

そして、その回覧板の手紙すら、ほとんどなくなった頃、成実や綱元など側近の大物が出奔している。

家臣との軋轢がどうであったかは具体的には触れられなかったが、出奔の原因かなあ?
部長は動けない政宗の代わりに、密命を受けて徳川の庇護の元、動いていたんじゃないかと勝手に推測します。証拠はないです。趣味です。

 

なんだかんだで、徳川政権になり、家臣団はそのままの状態で、大坂の陣で職を失った他家の家臣も召し抱えます。

で、石高を増やすにあたり、荒れ地を与えて耕せばお前のものだ言う政策を取ります。
これが当たって、仙台藩は全国でも米の取れ高が上位になり、江戸に米を輸出できるまでになったんですよね。

仙台藩は他藩に比べても武家が圧倒的に多いのです。
よそが100石に対して動員できる兵は2~3人に対して、仙台では5~6人の動員が可能だったといいます。軍事国家です。秀吉時代、江戸を通じて幕末まで兵農分離もしていなかったのでは?、ともいわれる所以です。
どちらかと言えば、武士が田んぼを作っていた、と考えるべきかしら?

 

他にも村、町単位の話もあり、そんなこんなで3時間半、伊達家三昧でした。

菅野さんと歴女仲間磯部さんと、部長。

濃い時間をありがとうございました!

 

おまけ:帰り、池袋駅では松ジャック!
はい、かわいい❤