伊達家家臣の戦闘に関するメモ
気になるツイートをご紹介。
戦国時代、大砲や弩みたいに集団で運用するものは、「誰の手柄か分からない」という理由で皆使うのを嫌がった。多分、日本人は全然集団主義じゃない。
— 黒澤はゆま@九度山秘録10/22発売!! (@hayumakurosawa) 2015, 10月 15
まあ戦国時代の個人主義集団主義で言うなら、正規の武士は個々が一種の経営者であり当然自己利益を中心に考える個人主義で、雇用者である足軽は集団主義ですね。 — まとめ管理人 (@1059kanri) 2015, 10月 15
戦国初期くらいまで、合戦であっても陣立ては個々の武士団がそれぞれバラバラに行っていたらしい。それを力技で一つの戦闘集団として統制したのが戦国大名ですね。
— まとめ管理人 (@1059kanri) 2015, 10月 15
武将の軍装が派手で目立つのは敵を倒した時に「俺がやった!」と、遠くからでも確認しやすいようにした結果だという話を以前に聞いたのです。
敵を殺すことで自分の収入と直結するので、大事なことであったのは理解出来ます。
では。
伊達家に話を置き換えてみましょう。
実元は、輝宗の完全なる支配下にいる意識はなかったと思う。
2番めのツイートのイメージです。
政宗はそれらを統合した大名だと思うので、これが3番目のツイートのイメージ。
成実は実元の息子で、考え方はまだそのまま受け継いでいた一世代古い感じがする。
政宗は成実より一歳年上だが、感覚はずっと新しい。
かなり後の話ではあろうが、仙台胴と呼ばれる五枚胴を政宗は家臣に奨励した。これは最初の「俺がやった!」という主張する甲冑とは真逆にあり、個性をなくしたとも取れます。
人取橋の時に、成実が敵勢に突っ込んだ事を政宗は大層褒めてますね。
これはまだまだ、実元時代と変わらない個人プレーの戦闘の仕方が常識状態だと仮定します。
時代は変わり、小十郎重長は、大坂の陣で大将なのに敵に突っ込むとは呆れた行為だ!と、景綱から叱られます。集団の軍隊として機能する時代になったとも取れます。あるいは片倉家は政宗の完全な配下であり、はじめから自由な行動は取れない立場かもしれないし、成実の立場とは違うこともあるのかも、ですが。
成実が出奔した理由の決定打はありませんが、
政宗が家臣を個々の戦闘集団から政宗の軍団へと統一したことへの違和感と不満であった事は要素としてあると思います。
とは言え。
政宗は結果的に古い習慣をそのまま残して、地方領主がそれぞれを治める知行制にしています。
仙台藩62万石は片倉家や亘理伊達家、石川家など各地方領主の石高を足した金額で、政宗の石高は0という話です。
政宗と成実と小十郎と綱元。
政宗 伊達家のトップ
成実 伊達家の血筋ならば本家の次
小十郎 政宗の子飼い(伊達家に代々仕えていた家ではあるが)
綱元 伊達家に代々仕えたでかい家
それぞれの立場から政宗を支えたことに違いはない。
いやあ、やっぱ伊達家は面白いわ~。
と、以上、ツイートを見た部長の感想でした。
無個性な半月軍装。仙台城政宗騎馬像の土台のレリーフより。