「伊達政宗の時代と世界」を聞いて
三井記念美術館で開催中の「松島瑞巌寺と伊達政宗」展の記念講演に行ってまいりました。
テーマは2つ、
「瑞巌寺の美術」
「伊達政宗の時代と世界」
です。
忘れないよう、覚書として感想を交えてブログに残しておきます。
脳内変換もしていますので、全ては鵜呑みにしないで正しい情報が知りたい方はこの記事の最後に紹介するリンク先の論文を読んで下さい。
「伊達政宗の時代と世界」講師:平川新先生
政宗が1613年に遣欧使節団をスペイン、ローマに送り出しますが、その時代背景を、ポルトガルが種子島にやって来た頃まで遡ります。
ポルトガル人が日本にやってきたのは1543年頃。
このころ、ヨーロッパでは、世界を2つに分けて線を引いて、ポルトガルとスペインの領土にしています。
日本は両方の領土になってしまいました。
画像ウイキペディアより
で、いそいそと先に日本にやってきたのはポルトガルです。
その次にスペインがやって来ました。
両国は日本に布教して植民地にしちゃえ、と考えます。
兵隊と弾薬詰め込んだ3~4隻の軍用船を派遣すりゃ日本は落ちるだろうとポルトガル人は本国にお手紙を書きます。
スペイン国王の味方をするよう大名に働きかければ、味方になった日本の兵隊を利用しちゃって、シナを占領できちゃうよ!と、スペインにお手紙を書きます。
ところがどっこい、この時の政権を握っていた秀吉が漢を見せる。
スペインとポルトガルのやり方に徹底的に対抗したのだ。
布教を隠れ蓑にした日本侵略は絶対に許さん!!!、と。
スペインの植民地化にあったフィリピンに対して、「日本に服従しろ」と、書簡を送り、
ポルトガル領のインドに対して布教禁止の通告を出す。
でも貿易はいいぜ☆って感じです。
そして脅しじゃないことの証に朝鮮出兵で、20万もの軍隊を送り、こんだけ兵士を動員できると世界に見せつけます。
スペインもポルトガルも慌てて、「こんな調子でフィリピンへもマニラへも日本の兵が行くぞ、用心しろ」と、現地へお手紙を書きます。
両国は最初は日本を甘く見ていましたが、秀吉の態度を知り、あいつはやばい、早く死ね、と思うほど脅威になります。
で、秀吉は死んじゃいますが、徳川も頑張った。
かくて、両国の考えは「布教武力制圧」から「キリスト教化」に転換、
そこへイギリスとオランダが布教しないから貿易しようとやって来ます。
徳川家康の時代になり、
布教の禁止を出したり緩和したりが10年位続く。
日本は貿易はしたいが布教はだめ、というのが本音だが、布教させてくれないと貿易もしないというのが向こうの言い分で、どっち付かずな政策を取っていた。
政宗は徳川家の消極的な態度を見て、環太平洋貿易のチャンスやで~!と、名乗りを上げる。
西日本ばかりが貿易で栄えるんじゃなくて、江戸や東北に近いメキシコルートの貿易港作りましょうや、みたいな話で、幕府と共同で船を作って、無事にメキシコ、スペイン、ローマに渡る。
貿易の条件として、「布教を許すお、伊達領内でな」という政宗の言い分に対して、「いやいや、日本全土で許してくれないと貿易しないよ?、ってか、お前んとこ、まじで布教許してんの?なんか話が違うんじゃね?」
折り悪く、日本は再び布教禁止に力を入れたとの情報がヨーロッパに入り、話は御破算、貿易の夢はついえます。
これがきっかけで、いよいよ日本は布教を禁止し、スペイン、ポルトガルに対して「出て行け!」と命じます。世界中を植民地化していた両国に対して、出て行けと宣告出来るほど、強かったのです。
それを見たイギリス、オランダは「いやいや、うちは武力介入しませんから、貿易だけですから」といって貿易を許され、長崎の出島という極小の地に押し込められた。
イギリス、オランダだって、国をまるっと植民地出来る力があったにも関わらず、わずか3924坪の土地に押し込められたのです。ちなみに東京ドームは14168坪らしいです。
つまりはスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスを完全に掌握し、服従させるほどの軍事大国でした、という話でした。
うん、なんか途中はしょったり、絶対ニュアンスが違うなってとこもあるので、興味を持った方は
こちらを御覧ください。
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平川新 著
なんかねえ、秀吉かっこいいよ、秀吉!